2ntブログ

母の顔



昨年他界した母のことをよく思い出します。母の存在は、私が男であることの最後の砦でした。強くて逞しく、優しい男に育って欲しいという母の願いを裏切り、私は、母に知られることなく今までオカマとして生きてきました。母もうすうす感づいていたのかもしれませんが、私がはっきりとカミングアウトすることはありませんでしたし、母もそのことを私に問うこともありませんでした。今思えば、母に伝えておくべきだったのではないかと悔やまれます。
私は子供の頃から泣き虫だったのですが、いつも辛いことがあると優しい母の顔を思い浮かべました。逆に父は亭主関白で、男らしい人柄で、そんな父に対して献身的だった母の姿に憧れていました。今思えば、私は母のような女性になりたかったのだと思います・・・

子供の頃は、友達に苛められて泣かされて帰ることが多かったの。私は両親を心配させたくなくて、涙が乾いてから帰宅したのを覚えています。それでも、母は私が泣いたことに気付いていて、優しく笑顔でおかえりと言ってくれました。私は本当に甘えん坊で、小学校の移動教室や中学の修学旅行で、数日母に会えないというだけで寂しい気持ちになるほどでした。移動教室では、人知れず泣いてしまいましたし・・・
そんな私でしたが、小学校の高学年から中学になる頃、私の中に眠っていた性癖が目を覚ましていました。それは、中学一年の頃、父が他界した頃から急激に芽生えたのです。

女性よりも男性の方が好きだという同性愛者である事実・・・

小学校の高学年の頃、私は、母に似た女性的な容姿でしたので、学校ではオカマとか男女とか言われて虐められていました。以前のブログにも書かせていただいたのですが、私への苛めの大半が性的な要素を含むものでした。ことあるごとに裸にされました。友達の間で女扱いされました。やらしいことをされて泣かされました。私が思いを寄せていたガキ大将的な存在の男の子との秘密の遊び「お尻の検査」は今でも忘れられない恥ずかしくて、官能的な想い出です。
晩ご飯の香りのする夕暮れ時、子供たちが家へと帰り急ぐ中、私はその彼に命じられるまま、人のいないところへと連れ込まれました。公園の中央にあった石の山のトンネルの中とか、団地の隅にあった掃除用具入れ、屋上に続く最上階の踊り場・・・滅多に人が来ることのないところで、私は、彼にズボンも、パンツも脱がされて、お尻を丸出しにさせられ、お尻をじっくりと検査されました。
お尻を広げられ、彼にまじまじと見られる・・・恥ずかしくて、切なくて、情けなくて、なのに官能的で・・・その最中、彼への隷属感は凄まじかったです。彼に支配されている気持ちになりました。決して逆らうことのできない強制力・・・ウンチをする穴を、好き勝手に弄ばれ、恥ずかしくてたまらないのに、頭が真っ白になるほど興奮しました。早く帰らないと叱られる・・・それももちろんありましたが、この時も優しい母の顔が頭に浮かびました。母が夕飯を作って待っているのに、友達にこんなことをされている私・・・男友達の前でお尻を突きだして、やらしいことをされている私・・・心の中が母への罪悪感でいっぱいになるのを感じて切なくなりました。

苛めは次第に私の性思考に影響しました。父を亡くしたことの相乗効果もあって、私の中に、逞しい男性に憧れる・・・憧れるというより、恋い焦がれる気持ちが芽生えていたのです。私のオナニーのおかずは全て、私自身が逞しい男性たちにやらしいことをされる場面ばかりになりました。憧れていた体育の先生、近所のごついお兄さん、父の弟にあたる親戚の叔父さん、テレビ映画で見た強そうで悪そうな男性・・・そういう男性に抱かれるこを想像することで私は性欲を処理していたのです。アナルセックスという行為が存在することをエッチな本で知ったばかりの頃のことです・・・
進路選択で、私を全寮制の男子校への進学を希望しました。
その頃、私の家の暮らしは裕福ではなかったので、そういう意味で、母は反対しませんでした。ある意味私の子守から解放されるわけですから、自由にお仕事も出来るということで私の進路はあっさりと決まったのです。

全寮制・・・

あまり選択肢はありませんでしたが、私は、男子生徒だけの学校で寝食を過ごすことに憧れていました。少し母から離れて自立したいと思う気持ちも確かにありました。ですが、本当の理由は別のところにありました。
進路についてクラスで友達と話し合っていた時、友達の一人が「全寮制の男子校って、男が男に犯されたりするらしいぜ!」という話をしたことがきっかけでした。他の友達たちは無関心な顔をしてその話を聞き流していましたが、私だけは、ひっそりとその話に胸がときめいていたのです。ああ・・・男子校・・・全寮制の男子校で・・・男の人にやらしいことをされたい・・・頭の中は、進路よりもそのことでいっぱいでした。学校見学をした時、私の気持ちは一瞬にして固まってしまいました。それは柔道場で見た主将の先輩があまりにも格好よかったから・・・
受験勉強のさなか、私は、その先輩を思い浮かべてオナニーに耽りました。私のオナニーのおかずは、先輩と私の物語一色になりました。妄想馬鹿と言っても過言なくらいでした。今思えば、好きな男性に思いを寄せる乙女って、そういう感じなのかな?とも思いますが、当時の私にとって、そのことは誰にも言えない思いであり、悩みでした。
小学校の頃に苛められた行為・・・裸にさせられたり、お尻の検査をされたり・・・その全てを先輩にされる妄想ばかりしていたの。裸にさせられて抱かれました・・・妄想で w。キスをされておっぱいを吸われました・・・妄想で w。お嫁さんにもなりました・・・もちろん妄想で www。そんな私は無事受験を終え、合格し(レベルは高くない学校だったので難しくはありませんでした)先輩のいる柔道部に入部したのでした。
残念ながら、大好きだったその先輩とは何もありませんでした。とっても優しくしてくださったし、心から尊敬していましたが、先輩の卒業までに思いを告げることはできませんでした。それは、女の子が憧れの先輩に告白することよりも遙かにハードルの高い行為だったの。お前、キモい!その一言で傷つけられることが怖くて・・・今ならば、もう少し、告白の前に挑発をしながら様子をうかがうことも出来るのでしょうけど、当時は、何もできませんでした。先輩の横で出来る限りの笑顔と愛想を振りまき、私が好意を持っていることに気付いて貰いたかった・・・ただそれだけしか・・・

先輩が卒業して、後輩(現在私が同棲している彼)が入部し、私の学校生活は一変しました。私を苛める後輩は一人だけでしたが、その後輩は柔道経験豊富でとても強く、鼻息の荒い生意気な後輩でした。私がヘナチョコであることがわかると、ことあるごとに私をなじり、苛めるのです。
私の容姿が女っぽいということもしつこいくらい冷やかしました。試合の時には出場せずにチアガールでもやってた方がいいんじゃないの?みたいなことも言われたし、夜の寝技の方が得意そうとか言われて侮辱されました。
私が耐えられないことを知りながら、部の練習量や練習内容をハードにしたのも彼です。もっともこれは部が強くなるためなのですから、ついていけない私が悪いだけなのですけど、先輩たちに甘やかされ、許されてていた私にとって、苛めに等しいくらい辛いことでした。中でも、最も憂鬱だったのが、彼との乱取りした。強烈な背負い、気絶しそうな締め技、内臓が潰れてしまいそうなほど圧迫される押さえ込み、情け容赦ないというのはこういうことだと思いました。私は何度も涙ぐみ、半べそかきました。乱取り開始の合図で、もう、私は腰が引けていました。彼と組むのが怖くて怖くて・・・組んだ瞬間に私は一回転。内股で金玉を蹴り上げられ、激痛を感じながら畳の上に叩きつけられました。やめ!の合図まで何度も、何度も、叩きつけられました。ニヤニヤする彼の顔を見て、鬼!と思いました。時々、私が半べそをかいているのを見て、「先輩の得意技は泣き落としっすね」と冷やかしたので、部の中で、私の得意技は「泣き落とし」としてからかわれるようになりました。
同学年の部員や他の後輩達がいる前はまだよかったのです。形だけでも私を先輩として敬語で話していたし、先輩と呼んでくれたので・・・ですが、2人きりの時は彼の態度は別人でした。私のことは「お前」とか「オカマ」と呼び、口調も乱暴で、言動も酷いものでした。後輩のくせに失礼な奴だと怒りたい気持ちよりも、ただ怖い・・彼のことが怖くて媚びるしかありませんでした。どうにか不機嫌にしないように、まるで腫れ物に触れるように、彼に媚びへつらいました。

しばらくして・・・以前、ブログで書いた、忘れもしない私の処女喪失が待っていました・・・

夏の合宿で処女を奪われ、卒業するまでの一年半、私は彼女とは名ばかりの性処理オカマ奴隷として、お尻を掘られまくり、フェラチオも仕込まれ、男に媚びることでしか生きられないオカマに改造されました。忘れもしない17歳の夏・・・後輩に強引にお尻を犯され、引き裂かれるような痛みの中で涙を流しながら頭に思い浮かべたのは、やはり優しい母の顔でした。
何度もビンタされ、両腕を力まかせに押さえつけられ、お尻の穴を硬い肉槍で抉るように貫かれました・・・私の中で思い描いていた甘酸っぱいセックスのイメージは、木っ端微塵に砕かれたのです。先輩に優しく抱かれて、愛し合う妄想・・・逞しい男の人に優しく抱きしめられる甘酸っぱい欲望・・・私の妄想の中のピンク色の映像が、割れた鏡ののように砕け散りました。
乱暴に唇を奪われ、千切れそうなくらい激しく乳首を吸われ、お尻は爪痕が滲むほど鷲づかみにされて、後輩に堕とされました。部屋に漂う恥ずかしい私の便臭・・・便と血まみれのシーツ・・・初体験は、あまりにも無残でした・・・私は、お尻の穴から彼の精液を垂れ流しながら泣きました。だけど、憎らしいことに、私はその夜で、彼の虜になってしまったのです。長年妄想し続けた男性との肉体的な交わり・・・まがりなりに初めて叶えてくれたのは彼だったのです・・・

高校を卒業してからの私の生活、人生は、これまでブログで綴ってきた通りです。常に、男性と一緒にいました。ゲイの発展場に狂う時期もありました。今思えば、危険なことを繰り返していたと思います。手当たり次第の生でのセックス。加減をしらないハードなSM。見知らぬ男性に連れられて別荘でのデート・・・数え切れないほどの男性と関係を持ちました。そうこうしているうちに彼が出来て同棲し、別れたら高齢なS男性の奴隷になり、そしてまた発展場通いをし、売りセンをしたり・・・ネットの時代になると出会い系で知り合った男性のご自宅に入り浸ったり・・・男と関わっていない時間が一瞬もないほど、男性がいないとダメになるオカマになっていました。
その中で、後輩と寄りを戻しては別れ、別れてはまた寄りを戻し、三度の別れを経て、今の同棲に至っているの。今回は今までで一番長くて、寄りを戻してから11年になります。セックスはおろかキスもありません。男女の関係と言えるものは何一つないのですけど、家事をしてあげたり、お仕事のパートナーとして支えたり、私の中では憧れていた母のような状況になれていることには幸せを感じています。
だけど、、、やっぱり男性に抱かれたい夜はあるし、まだ、可愛がってくださるという男性がいる間は、女を装う夜が欲しい。若い頃、ゲイの発展場で引く手あまただった頃とは雲泥だけど、年を取って、おデブになって、ケバいオカマになってしまっても・・・それでも、そんなオカマが好きと言ってくださる男性がいることが私にとって最高の励み・・・それに・・時々・・・鏡で自分の女装姿の笑顔を見て、そこに母の笑顔が重なることがとてもうれしくて・・・
戦いに疲れた愛する男性を全身全霊で支えたい・・・愚痴や八つ当たりの対象にされてもいい。奴隷のようにこき使われても構わない。私の前で好きなだけ偉そうにして欲しい。子供の頃、母親に甘えたように甘えて欲しい。お望みならば、お小遣い稼ぎの道具にされたって構わない。私の最終的な望みって、男性にとってのそういう存在になることなのね・・・いつも、そう思ってしまう。